情報理論と情報
前回、小野厚夫 「情報ということばーその来歴と意味内容」を読んだことのきっかけは、 ある機会において情報学系の学生さんに対して「情報」という語を説明したいと思ったからでした。
さて、情報っていったい何ですか? と訊かれた時に、わたしはどう答えるのがよいでしょうか。 ここでは、ジェイムズ・グリックの「インフォメーション 情報技術の人類史」を主に参照しながら答えを探ってゆきたいと思います。
クロード=シャノンの情報理論(1948年)がブームとなった結果、従来の用法にとどまらないシャノン流の「情報(information)」の意味合いが世界中に広まりました。
「インフォメーション 情報技術の人類史」によると、シャノンは「暗号技術の数学的理論」(1945)において次のように述べていたといいます。
- 「メッセージの”意味”は、一般的に重要性を持たない」
- 「ここでいう”情報”は、この単語の日常的な意味と関係しながらも、そのような意味と混同されるべきではない」
ベル研でのナイキスト、ハートレーからシャノンに至る研究を経て、メッセージはそこから意味を切り離して定量的に扱うことができるようになりました。 この数えることのできる「情報」がシャノン流の「情報」の意味合いであって、 現在のコンピューティング環境に囲まれた私たちにとって、情報を容易に切り貼りしたり変化させたりできるという情報「処理」の感覚も、 こうしてメッセージを定量化する見方が強く影響しているように感じられます。
「情報ということば」では、1951年にシャノンの情報理論を日本で紹介した研究者のひとり、高橋秀俊による説明を一般的で判りやすいものとして紹介しています。
情報とは一体何かという問に、一言で答えるならば、それは「知る」ということの実体化である。つまり、われわれが、あるものについて「知る」ということは、何かしらを得たこと、何かを頭の中に取り込んだことである。その「何かしら」をわれわれは「情報」と呼ぶのである。(「情報」東京大学出版会、1971年)
この「知る」とは機械から機械へ情報を送るときのように、人間以外に対して擬人的にあてることもできる、としています。
高橋が説明する《「知る」ということの実体化》には、情報の「知らせ」に伴う意味的な側面と、 戦後発展した情報処理において情報をひとまとまりの処理単位として見ることが容易となった定量的な側面の双方が含まれているように思われます。
「実体化」という言葉については、もう少し検討する必要があります。というのも、かつて電信が登場した際にメッセージは物理的な実体を持つ形からいったん分離されたと言えるためです。
メッセージとは物理的な実体であるように見られていたが、それは最初から幻想だった。今やメッセージの概念を、メッセージが書かれた紙片から意図的に切り離す必要があった。《ハーパーズ》誌の説明によれば、科学者は電流が「メッセージを”運ぶ”」というだろうが、その言い回しから、なんらかのものが--なんらかの”もの”が--輸送されるところを思い描いてはいけない。(「インフォメーション 情報技術の人類史」p.191)
ここでメッセージを”運ぶ”という言い回しに注目したいと思います。高橋の「実体化」とは頭のなかで起こるひと掴みのような感覚に聞こえますし、機械に対する擬人的な言い回しも含め、情報とは見立てることなしに説明が難しい感じがあります。シャノンの情報理論を理解する上では確かに具体的なものが輸送されることを思い描いてはならないのですが、電信の時代から今に至ってその「知る」ことや「報せ」の量が日常にあふれかえるようになりました。紙片という形を失いつつも大量に存在するとしか思えないこの独自の存在感については、なんらかの表現で指し示す必要があります。
このことを考えると、シャノンらは情報という言葉を取り返しのつかないほど広げてしまったと思えてしまいます。
新しいメディアの出現に際して、メディア論の水越先生は「古いメディアの隠喩が新しいメディアを統率する」とされています(水越伸「21世紀メディア論」2011年)。テレビは「絵の出るラジオ」という隠喩によって大衆に受け入れられましたし、「電子+メール(郵便)」なども人々がとらえにくい技術を「〇〇のようなもの」として理解しようと生み出した造語であるということです。
情報理論以降の情報という言葉の変容についてこの考えをあてるなら、電気通信における情報とはメッセージを運ぶ紙片という古いメディアによって理解される新しい言葉(「ラジオ」に対する「テレビ」のような言葉)である可能性もありました。しかし、シャノンは通信システムと情報量という全く新しい概念を示す際に、熱力学における「エントロピーのようなもの」としても理解できるようエントロピーという既存の語をそのまま用いました。
そして、これと同じことが情報という言葉にも言えるかもしれません。メッセージから意味を切り離して定量的に扱えるようにした新しい「それ」のことを、ナイキストは intelligence、ハートレーとシャノンは information (報せ)といういずれも既存の一般語(※)で端的に呼ぶことにしました。
結果的にシャノンらは「information」とは「(従来からある)information のようなもの」、つまり「情報」とは「情報のようなもの」であるという自己の再定義、意味の拡張を行ったため、情報という言葉は現在のような文脈の深さを得たと言えるのではないでしょうか。
※information という英語の語源とシャノンによる情報理論発表当時の一般的な用法についてはこちら。
情報となさけ、個人的な思い出より
「情報ということば」の最後や「あとがき」にあるよう、1990年ごろには「情報」と「なさけ」とを重ねて語ることが訓示などで用いられがちだったと思われます。
私が1993年に情報工学科へ入学した際、そのオリエンテーションでも担当の先生が「情けを報せる」学問だと訓示されたことをよく記憶しています。こうしたことが俗流のよみかたであると今回知ったのは気持ちとしては残念でしたが、同時に別の感慨も湧き上がってきました。
情報工学は当初から工学系に重心を置きながらも広く人間活動に関わる学問であって、その人間要素の占める部分が年々大きくなっていたなか、「情け」という言葉を持ち出されたのではないかとは個人的に思われるところです。というのも、もともと工学的な側面に限らず雑誌その他メディア上の言葉が人の心に影響するところの「情報」に興味があって情報工学科を受験した経緯があり、「情報とはなにか」という問いはそうした背景で入学初日から琴線に触れて記憶された出来事であったことを、書き留めておきたいと思います。